「対話のはな」とは
「対話のたね」に寄せられたみなさんの声と大原理事長の応答による対話の様子をお伝えします。
92号の「対話のたね」の言葉に、多くの皆さんからお考えが届きました。
ありがとうございます。その一部をご紹介いたします。
皆さまからの投稿(一部)
老舎の駱駝祥子の中のこの言葉、今の私の気持ちを表しています。実は、一昨年の秋ごろから、自己概念の成長を私自身の事例で言語化に取り組んでいます。この作業のキーワードが「経験(出来事+感情)」です。「出来事」は変えられないけれど「感情」は変えることができる、つまり「感情1」が「感情2」になることで「経験」が変わるのですが、まさに今、「感情1」が「感情2」に変わったことを経験しています。同時に自分の変化も。老舎の「経験が人を変える」とはこのようなことなのでしょう。そして、「経験(出来事・感情1・感情2)」は私が生きていく(成長していく)肥料となっているのでしょう。
砂漠は「その人が置かれている状況」を、牡丹は「幸せ」をそれぞれ象徴していると受け取りました。「砂漠では牡丹は育たない」、この言葉を通して老舎は逆説的に「状況に対する受け取り方を変えることで幸せになれる」というメッセージを送っているのだと感じています。
(味田 健一 様)
「砂漠で牡丹」という表現は、なんとも詩的で映像的ですね。心にイメージが出てきて、あれこれ考えます。乾いた土と砂ばかりの砂漠は、孤独や苦悩、停滞の象徴とも受け取れますし、その中に潜むピンクや赤の牡丹の花の美しさは、希望や成長、行動の可能性を秘めているようにも思えます。牡丹が美しく咲くためには、経験という肥料をうまく使うこと、味わうこと、そして、心の潤いを育むことが必要なのかもしれません。その潤いをもたらすために、キャリアカウンセリングやキャリアドック、経験代謝について、改めて考えてみたくなります。
(旅のらくだ 様)
経験についてよく考えるようになったのは、私の場合はCDAの学びに出会ってからだ。それまではというと、たとえば、卒業文集などは書いたりしたことはあっても、そこから自ら学ぼうという意識があったかというと、そうではなかったと思う。ただ、書いていた。
経験は人を変える。確かにそうだ。強くなるかもしれないけれども、逃げるようになるかもしれない。経験が糧になるには、きっと経験するだけではなくて、自らの心がけや意識があることと、何か外からのきっかけや第三者の力も必要なのかもしれない。牡丹はきっと、そんな、いろんな力があって咲くのだろう。だから美しいのだろう。
(むた 様)
人はさまざまな経験をしますね。
私は現在、継続雇用も終了し、縁あって非常勤で大学のキャリア授業等を担当しております。大学教員ではなく、企業勤務の経験者として、学生の前に立つ時に大切にしているのは、「自らの経験を語ること」。自らの「受験失敗で大きく落ち込みボロボロになった話」「リーマンショックで、大きな損失を出し、大手企業に買収され不安に感じていた日々」等々。大事なのは、事実とともにその時の「感情や思い」を伝えることですね。折に触れ「経験」を語れば、学生もこれからのキャリアに関して、何らかの興味を持っていただけることも多いと感じます。「教え」は最小限に、「気付き」は最大限にといった感じでしょうか。経験を言葉することで、人の気持ち・行動も大きく変わるものだと思います。
(成功は「部下の手柄」失敗は「上司責任」いつもこうありたい。様)
種をまいた者から
老舎の言わんとすることは、「経験を大切にしないと幸せにならない」ということだろう。そこで私は、老舎の意図を飛び越えて、こう考えてみた。キャリアカウンセリングを普及するためには「牡丹」の意味を理解してもらう必要があるのではないかと。キャリアカウンセリングのニーズにブレーキをかけている一つの要因は、人が牡丹を必要としていないか、あるいは牡丹を見ようとしていないことにあるように思える。牡丹がなくても砂漠(人生)を歩くことはできる。それに意味はなく、砂漠を歩く旅人は、ただ命ある限り歩ききることだというニヒリズムがある。だから、歩く分だけの水があればいい。旅人から「牡丹は何か役に立ちますか?」「砂漠に牡丹は咲かないのでは?」といつも問われている。でも、わかってほしい。牡丹は「自分らしさ」だということを。