みなさん、こんにちは。JCDAの会長をしております立野了嗣です。
あっという間に7月になりました。もう1年の半分以上が過ぎましたね。お元気でお過ごしでしょうか。
このところ全国的に大雨が降り続き、大きな被害が出ています。ここ川越にも先日、大雨警報が発令されました。歩いて数分のところに小畦川(こあぜがわ)という川幅20メートルくらいの川が流れています。昨年氾濫し付近の住居に被害が出ました。こういう地域は日本のいたるところにあるのではないかと思います。梅雨明けまでもう少し、みなさんお気を付けください。
今回のテーマは
先ほど、「与えられた自己概念」によって我々は日常生活を円滑に過ごしている、と申しました。しかし、人生の方向を決める重要な「モノの見方、考え方」が、「与えられた自己概念」「仮(借り物)の自己概念」になっていた場合、その人は人生または生活に不全感を感じたり、ある種の出来事に対して悩みの経験を繰り返すことになります。そんな時、経験代謝理論を心得たCDAの支援が望まれる場面です。
一つの事例をご紹介しようと思います。その内容からテーマを「仮(借り物)の自己概念」としました。この事例の紹介は、本人の承諾の下に行っています。またテーマとの関連性が薄い部分については大きく変更を加えています。
まず、事例を提供して下さった方(Aさん)を紹介します。この方は、学校時代にはクラス委員を自ら買って出たり、また社会に出てからは、あるスポーツの地域の同好会を結成し、そこの役員を何年間も担当して来られた経験を持つ方です。
こう申し上げると、周りの人を巻き込んでバリバリと活動するリーダーシップにとんだ「やり手」をイメージするかも知れませんが、印象としてはそうではなく、静かな、むしろおっとりした印象を与える方でした。
この方が大事にしていらっしゃった「ありたい自分」、つまり自分が本来持っている「生きて行くエネルギー」に付けた名前は、「調和」でした。
何か他者から好意を受けたら必ずそのお返しをしようと考える方で、他者に対する配慮をいつも心がけている様子がうかがえ、この方が本来持っているエネルギーの名前としては相応しいように思えました。
そのAさんがある時、ある自主活動を行う地域の責任者を買って出られました。その活動は順調に運営されておられましたが、それらの活動の中で「調和」が乱れるような出来事をいくつも経験されたとのことでした。
Aさんの人柄の下に協力しようという方も沢山現れましたが、中には理不尽と思える行動をとる方もいらっしゃり、Aさんは、その方々と「調和」を取ろうと接触を試みられましたが、上手く関係を造ることが出来ませんでした。関係を上手く作れなかった対象の方々は、地域活動の仲間ということもあり、なおAさんはその経験に悩まれました。そこには交渉や説得、時には衝突も必要な場面だったのかも知れません。
そのような時、Aさんは、経験代謝理論の中で展開されている「自己概念の成長」に関する考え方に触れ、自身の「ありたい自分(人生を方向付けるエネルギー)」、「調和」を改めて考え始めました。「本当に私の中にある『ありたい自分』は、『調和』なんだろうか」。
「調和」を心がけて活動して来た経験を改めて思い返しました。そこで気づいたのは、「私が求めているのは、調和なのだから」と思い活動して来た内容は、「言いたいことを我慢する」、「不愉快な気持ちを押し殺す」そのような経験が思い浮かびました。スポーツの同好会での経験、学校でのクラス委員を買って出た時の、あの生き生きした経験、あののびのびした明るい感じは「調和」という言葉では表現出来ない、という事に気づきます。
そのように考える中で、「『調和』は、『仮の自己概念』ではないか」と考え始めます。
そして「仮の自己概念」が名付けている「経験から受け取った意味(ある、モノの見方、考え方)によって経験につけられた意味/名前」を考えました。出て来た名前は、「自己犠牲」でした。「仮の自己概念」が「調和」。「経験から受け取った意味」が「自己犠牲」。この二つの対応する言葉に行きつき、これまで人生の中で経験して来た様々なことが「結びつく、説明出来る」実感を得ました。
では、「これまで『ありたい自分』は『調和』と思っていた、それが『仮』だったとしたら、『調和』に替わる『ありたい自分』はいったい何なのか。」過去の生き生きした思い出を造っていたものは何だったのか、自分は何を求め、そして発揮していたのか。
そのようなことを考える中で自然に浮かび上がって来た言葉が「躍動感」でした。
この間、「調和」という言葉(「仮の自己概念」)によって覆い隠されていた自分。
「躍動感」は、「調和」を乱す可能性のある考えである「見たくない自分」として「表に出ないようにしておこう」とした暗黙の意図を感じます。
ここで、誤解があってはいけないので念のために申し上げておくと、「調和」を求めるが故の「自己犠牲」。それらが覆い隠していた「躍動感」。これらの言葉は、Aさんのこれまでの人生経験が生み出した言葉だと思います。「調和」を大事にしていらっしゃる方は沢山いらっしゃるでしょう。それらの方々が一堂にAさんと同じ悩みを抱えていらっしゃる訳ではありません。
「仮の自己概念」「経験から受け取った意味」これらの言葉は経験代謝理論の中で「悩み」の経験を読み解く為のキーワードであり、構成概念(心理研究などにおいて、人の行動のメカニズムを説明するために、 研究者によって人為的に構成された概念のこと。)です。
「悩み」の事例には「仮の自己概念」が含まれます。
「仮(借り物)の自己概念」が生み出される経緯は複雑です。
「悩み」の経験は、それまで持っていた「モノの見方、考え方」つまり「自己概念」を揺るがします。そのような経験はなぜ「自己概念」を揺るがすのでしょうか。その出来事には否定的な意味付けがなされています。出来れば避けたい、しかし何らかの事情で避けがたい、そのような心理の下に生み出された「モノの見方、考え方」が「仮(借り物)の自己概念」であると一つには考えます。
今回紹介した事例は、また違った経緯が考えられます。Aさんにとって「調和」は、肯定的な意味があるのではないか、と推測します。やがて「躍動感」の下に「調和」は再定義されるのではないでしょうか。
「仮(借り物)の自己概念」には、社会通念が投影されています。しかし、すべての社会通念が平等に扱われる訳ではありません。「その」表現、考えを選んだ(本人には、まだ明確に言葉になっていないかも知れませんが)のには、背景なり理由があるのです。
その背景や理由を認識し、「表に出ないように」されていた「見たくない自分」を本来の「自己概念」の中に取り入れ統合(全体性の獲得)を実現することが自己概念の成長だと考えます。
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